2015年10月27日火曜日

かえり船

地元の小さな音楽会へ、出かけた。

知った顔ぶれの人生の先輩たちの中に押し入るように入り込み、昔懐かしの歌から、クラッシックなど生演奏に親しんだ。

その中で、戦後シベリア抑留から日本へ帰るための船を題材にした歌がハーモニカで演奏された。
「かえり船」という曲。

当然、私は初めて聞く歌だったが、シベリア抑留と聞いて、私の父方の母(祖母)の弟がそうだったことを思い出した。

無事に日本に帰ることができ、もう一度新たな人生を送る思いだったことを聞いたことがある。

「おじさん」と、呼んでいた。
おじさんは、当時歯科医師だった。

戦後GHQが入り、「歯科衛生士」という人材が、新しく日本に必要とのことで、歯科衛生士学校を設立するための準備に関わったという。

その話を、私が歯科衛生士学校に通う中、その近くでご隠居されていたおじさん宅を訪ねては、聞かせていただいた。まさか、身内で歯科衛生士の卵が、出現するとは・・・今思えば、「私、歯科衛生士になる!」と、思いだしたかのようにスムーズに進路を決めたし、これは偶然じゃなかったのかも!?と、この職にとても運命的な出逢いを感じる。

おじさんから、歯科という医療に関わっていろいろなエピソードや、これだけは注意して訓練し覚えなさいと教えを受け、私もそのような歯科衛生士になろうと、強く思った。
その中の一つに、患者さんを施術しているとき、少しでも動いたり痛がったりしたら、両手をすぐ引ける用意をして、施術するんだよ。と、教えられたことが一番頭に残っている。

当時学生の私、その段階まで到底、達しなかったけれど、「はあ、そうですか・・・。」と、わからないなりにも答えた事を覚えている。

その時は、はっきりつかめなくても、言葉は頭にすっと入った。

以降、「それってどんな感覚なんだろう」と、頭のなかで、ぐるぐる・・・。それから、約3年後、おじさんは他界した。
その間私は2年の、学生生活を終え、晴れて歯科衛生士の免許を取得、続いて同衛生士学校の実習助手として、働きはじめて1年経ったころの出来事だった。

おじさんの遺品から、歯科医師時代の道具を見せて頂き、その中には眼科で使うハサミなど歯科用に限らず、あらゆるお気に入りの、工夫された道具が詰まっていた。
「そうか!」こういうオリジナル、ありか・・・。

あれから、約20年、私の臨床歴は10年ほどですが、自分らしい仕事の在り方を求めて今に至る。日々、誠を尽くすのみである。

思いは受け継がれる。

バトンは渡された。

今の自分を最大に表現し、私というオリジナルに生き続ける。




今週の一輪、患者様を迎えます。



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