2015年11月29日日曜日

なりたい自分を作り上げる

新しいことを始めて数年経った頃 、もっと上手くなりたいと思った私にある先生が、こんな事を言われました。
「自分に聞くんだよ」

「自分!?… どうやって聞くの?」これが率直な当時の私の答え。
自分に聞いても??何も返事返ってこない・・・ 、 どういうこと?


「どうしてもマスターしたい!」だけど 自分の体が思うように動かない。先生の話を聞いて見たらわかる...気がするけど、 もう一度自分で真似ようとすると、体が言うことを聞かない、 というより全然違う !!

このもどかしさを何とかしたいと思い、 先生に尋ねたところ帰ってきた返事が この言葉でした。

実はこういう事は、 何においても共通することではないでしょうか?
私の場合、この時の 学びエリアは太極拳でしたが...。

当時 私から見れば 「仙人」にも見えたフシギな雰囲気を持った先生、 しかし 太極拳だからこんな世界なのかというと、そうではないような気がします。この先生の言われた事は、今思えば正しかったのです。

「自分に聞く」、 つまり 自己対話するということです

頭の中で あれやこれやと自分に問いかけブツブツと繰り返す

私流で行くと、

あれは どうか? 

あれがあれ で
あれは こうだ
あれはこんな感じか...

それはどうか?
それはそれで
それはこうだ
それはこんな感じか?

とね。



そうすると、今までと違う感覚が身についてくる。
それは、「自己対話が増えるごとに自分に具合を聞きながら進める癖がつく」、という事です。

頭の中でいろいろ想像し、

あらゆる角度からの見え方を研究し、

その日の自分の体調やできる範囲を調節しながら、自分に取り入れる。



先生から教えられた事を、「ふーん」と通り過ぎるように聞き流して、練習しても、いつまでたっても上手にならない。
先生のデモンストレーションの中には、うん年分の経験値が表現されている。

これを、どれだけ自分に分かるまで解釈にこぎつけるかが、自分が技を盗むコツとも言える。


ある程度年数経てば、誰でも身につく事でも、その中身の質は年数だけでは語れない。

「どうせ自分なんて、こんなもんだ。」と諦めてはいないか?終わりにしては、いないか?

どんなに、不器用であっても、要領が悪くても、自分の感覚を自己対話で磨いて、必要な事には、取り掛かる。「ふーん。」と、通り過ぎないように、注意する。

何でも上手くなったら、自信がつく。

自分にたくさん自信を育てて、生き生きした自分になってきたら、それが、理想の自分を作り上げる過程ではないだろうか?

まさに、自分と向き合い地道を繰り返せば、いつの間にか振り返った時に、
「あれ、私こんなになってた?」
と、気付く。

自分とは、自分が作った、作品のようなもの。今日から始めれば、今日からの作品となる。

我慢して、努力する!と言うより、じっくり一つ一つ積み上げる感じ。


まさに、「上手くなりたい!」と、テンション高い願望を自分に当てはめる、

楽しい想像力がモノを言う。

たまに、食べたくなるお赤飯。








2015年11月24日火曜日

教育の中に入る

学校教育で、一番長いステージの小学校。

我が子が初めて入る頃、自分の小学校時代の古い記憶しかなく、心配や不安もあった。「何が」かというと、
「学校のシステムにのれるだろうか?」
「勉強が始まるけど,ついていけるだろうか?」
「友達は?」など、
すべて、自分の過去の記憶から、不安心理が出る。

本来、

学校ってどういうところなんだろう?
何を学ぶところだろう?
保護者になった今、何するところなのか?

まだ、我が子は学校行ってないのに、そんな事を考えていた…。
だから、就学前検診で集まる保護者の会は、そんな雰囲気に包まれている気もする。
ある小学校で、この時間に学校の図書ボランティアが、保護者に絵本を読んで聞かせる時間があった。
「だいじょうぶ だいじょうぶ」という絵本だった
優しく、語りかけて大人たちに向けた読み聞かせをする。
「素敵だ〜!」と、不安な心に、あたたかさがしみいった記憶がある。


そう、大丈夫!大丈夫!しっかりと、我が子の状態を観察して、感じ取る心を準備すれば・・・。
ところが、考えなくて良い、感じなくて良い気持ちが、湧いてくる。


学校の先生が言われる事と同じ事をし、言われた事をそのまま子どもに教え込ませる事が家庭ですることなのか?
私たちは、我が子のことをよく知っている。先生よりも知っている。
それは当然の事だが、このことを忘れてしまい、目の前の指令と感じる事に囚われてしまうと、我が子が見えなくなる。


今まで、我が子を育て、見てきた事、知った事がある。
その子がその子らしく生きるための、ほんの一部の教育時代。

長い目で考えたら、日々の事が積み重なって大人に向かうのだから、今のその時を見逃すわけにはいかない。

私個人の、過去に執着した経験から来る考え、を挟まずに、そのままのわが子に向かい合う。
そのために、自分の考え方を整理することを決意し、学んだ。
その結果、
願望は喜びと共に持てるよう、想像力豊かな子ども時代を過ごして欲しいと、思うようになった。




今や、
たくさんある授業の中の、1コマで唯一、保護者に与えられたチャンスと言えるべき時間をもった、「読み聞かせ」の時間に関わることになったPTA活動。

子のお誕生祝い:寿司ケーキ

面白くなかったら、子どもは聞いてくれないのが現実、それを我慢させるほうが、無理を子どもたちにお願いしていることになる、とするならば、

読み手が楽しくて、頑張っている姿、一所懸命に注ぎ込んでいる姿、楽しそうな姿、堂々とした姿、大人の落ち着いた姿、どれもよく見られていて、そんな姿をみて少なからず影響を受ける子どもたち。
聞かされているのではなく、聞きたいから聞く。

それに、応えられるよう大人は誠心誠意とたっぷりの愛情をそそぐ。



あの時、先輩保護者から、癒しの時間を十分に注ぎこまれ、満たされた事を忘れない。
それに応える為にも、私にできること。
教育の中に、求められるもの。自発的に、その子にとって集中というツボを刺激し、本来の自分が感じとれることは何か?その質問を繰り返して、親という経験を積む。
想像力と共に生きる子どもたちに、私たちが習うことは計り知れない。










2015年11月18日水曜日

そうは問屋が下ろさなかったこと

「それが一体何になるの?」の、続きです。
小学校のおはなしかいスペシャルは、見事に成功しました。

中でも、メンバーで土壇場まで打ち合わせを続けることになった、劇「カチカチ山」。
今となっては、喜劇「カチカチ山」とよんだほうが、ぴったりです。


ワクワクするシナリオができたのは、本番1週間前、ある行事で頑張ってる小学校の先生たちを見て、影響を受け、
「私も頑張らなくちゃ」と、自分にできることを考えだしたのがきっかけで、そのあとは加速し続ける頭の中。
ドラえもんのポケットのように、あれやこれやと「効果音」をテーマに、鳴り物を出して並べ、登場人物の気持ちが、よりはっきりするように想像をしました。

当初、絵本から起こした劇だったので、絵本の内容をそのまま人が真似することから始まりました。
実際に劇となると、掛け合いと絵本に書かれていない間合いの読み取りが、必要です。

全員素人!それなら最初からチャレンジするのみ。

私の役は、早々にお亡くなりになるおばあさんの役、終わったら暇になるじゃないか。

「そうか!!黒子で動けば堂々とウロウロしていい訳だ。」

こらしめられるタヌキを、黒子が音で表現する。

しかし、黒子らしい衣装は無いため、そこはフード服とサングラスで・・・。
ワクワクシナリオがひらめいて3日間、音出しなどの練習と、イメージトレーニングをしたら、今までしたことのない黒子キャラができたのです。
子どもから言わせれば「変な人」=それは私の望むところ。・・・このキャラに合う効果音って、やっぱり私の過去履歴からいくと、
小倉祇園太鼓の、ジャンガラかな・・・。(この話はまた別の機会に・・・。)
これも、ホンのちょいカジ程度ですが、とても練習した記憶があり、(大切な良き思い出は再び・・と、練習用のこわれたジャンガラを友人から譲り受けたまま、)音は出るからこれに決まり、と!


そこで練習、
普段耳にしない、爆裂大音響。
音のパターンを色々とって、ニヤリと笑う娘をよそに、あらゆる動きを試し・・・、


本番3日前に、メンバーに紹介を含め実際にこの音を入れて、台本にない動きを入れたり、その場に合う流れをみんなで見合って作りあげる。

メンバーにとっては、練習を重ね、ようやく全員の動きがつかめるようになった頃、
この日、ただ書いてあるセリフを言うだけになるかと思いきや、そうは問屋が下ろさなかった喜劇化。

「これで、いく!」と、熱く火種をおとしたら、周りに一気に引火した。
(そんな、カッコで・・・、そんな音なら・・・誰も止めないか。)


この練習の様子を見ていた、放課後のわが子たち、
「・・・お母さん、楽しそうやね。」
「っ楽しいよーー!!」(即答)

素人劇だから代用品も多くある、それなら代用品を使いこなすまで。たとえ割に合わない大きさでも
笑いをこらえて、役を受け、なりきる。(この日の練習は笑いすぎて、翌日、お腹と背中が筋肉痛だった私。)

それから当日までの時間、メンバーそれぞれ仕上げるための準備をしてきていた。

だから、本番が一番面白く、例年にない集中力がみなぎっていた。


会場は、小学校の図書室。

普段、「おしずかに」がお約束のお部屋。

充実した時間を、共有し、「楽しかったね。」と、ここ数日の変化を思い起こす。

1人より2人、2人より3人。数が多くて、やる気と、楽しむツボを捉えたら、その先に待っているものは、人にしか味わえない幸福感。
こんな身近な体験が、積み重なって私達の人生が出来上がっていく。

また、やろうね。








2015年11月15日日曜日

太極拳 in japan

太極拳をはじめて、10数年、途中ブランクはありましたが、これを機にあらゆる仲間と出逢いました。
今までに5人の先生に習い、それぞれ特徴のある、その場で慣れ親しんだ思い出があります。

きっかけは、過去ブログ「嫁入る前の、贈り物」で少し紹介しています。

この度、地元の文化祭で発表会がありました。

太極拳の歴史は古く、今では中国の無形文化遺産となっています。
1965年に現代版太極拳としてもっともポピュラーな「簡化24式太極拳」が制定され、その愛好者は健康でバランスのとれた生活を送るために広められ,健康的に生涯を過ごしたいと考える人は増えています。

今回は、この簡化24式太極拳の様子を紹介します。
(ピンクが私、左側の白い服をきた人は、今教えていただいている先生です)


初めてこの動きを見たとき、空気中にいるのに、水の中で動作をしている様にみえ、なんと不思議な動き、そして魅力を感じました。体の自然治癒力を高め、健康の回復・維持に大いに役立つという事です。
ある先生は、90歳になっても出来る運動ですよ、と言われましたし、80歳の先生で、前後に開脚する姿を見せていただいた時は、あまりにも見事でキレイでしたので、カルチャーショックを受けたことを覚えています。

「普段、何もない所でつまずく」、なんていう小さな困ったことはありませんか?

その昔、「太極拳をはじめて、物につまづかなくなった!」と大変喜んでいらっしゃったおばさまたちの会話が、印象的です。

更には、「ロープが張ってあるような障害物があったら、足をあげてまたいでいけるよね!」など、女子たちの雰囲気を思わせるような騒ぎぶりでした。

「そんな、悩みがあるのか・・
だからって、ロープまたいで進んじゃうその区域、OK?」、・・・何はともあれ、元気に満ち溢れる姿は、年齢に関係なく楽しそうでした。当時30代前半の自分も、この先、この人たちみたいに元気に歳をとりたいなと、思ったものです。

ってなわけで、おかげさまで人生の基礎がためとして、私が選択してきたことは、

生涯続ける運動、太極拳
5年ほど前から、食事に気をつけるようになり、正食の勉強をし、
3年前より、潜在意識の正しい使い方、訓練法を、学び始めました。

以上を、積み上げていくに連れ、私の中で徐々に本来の私の生き方の進むべき方向が示され、自分を真に磨き上げる路線に、のりました。

この3つに、共通することは、法則性に則った内容であることです。
法則とは、いつ、何処でも、一定の条件のもとでは成立する普遍的、必然的関係をいいます。

つまり、人間が人間らしく生きるには、お約束があり、
成長をし続けるより、他はない。ということで、ここから逃げれば、法則から外れるという事です。


だから、今の私に必要なことはなにか?を、常に考えます。
すなわち、
趣味:考えること

となり、自分の命ある時間を、無駄にしないことを決意するのでした。(気合!)













2015年11月10日火曜日

若人にかける

息子は中学生、時折状況判断の仕方で家族で話し合う事がよくある。
父は、我が子がかわいくて仕方がない。
だからこそ、教えておくべき事は,
事あるごとに時間をさいて話す。

家族で休日を共にするときは年に数回だが、大抵ドライブを兼ねて出掛ける、道中は普段話す事が少ない父が考える、「考え方の技術」なるものを伝授する時間である。

根本は武士道。

情けを掛けられて助かるより、情けを掛けられて情けない、もっと向上すべき事がある、常に上を目指す姿勢が大切なのだと、例を交えながら。

息子は、ひたすら相槌をうつ。

父は、あらゆる思いを含めて語る、もしかしてもうすでに超えている域に、来とるかもな・・・?なんていいながら、

子どもに対する父親像とはどんなものなのか?
それが、自分に無いためか
わが子のために模索しながら考えている父親。



自分の過去の中学時代と、今のわが子と重なる。


あの時、どうだっただろう?



「次は、こうする。」

息子の決めた答えに、父はこたえた。

「おう、お父ちゃんは、若人にかける!」


             愛と自由は両立する。







2015年11月9日月曜日

それが一体何になるの?

数年前、あらゆる「アーチスト」が、ワークショップを繰り広げる施設に、頻繁に出入りしていたことがありました。子どもをつれて、半ばお母さんが行きたいから、申し込みです。

何に引き寄せられたかというと、魅力的キーワードは

・ものつくり
・講師が、外国人または日本人でも世界単位で交通する人
・チラシをみても、何なのかよくわからないが、楽しそうと思う

です。

今思えば、
ものを生み出す人は、一体どんな感覚なのか?
どんな発想なのか?

を、探っていたような気がします。

    結果、ヒントは「何でもあり!」という事がわかりました。

参加した内容は、
ミシンを使った、たこ作り、東南アジアの楽器演奏とワークショップがセットになったもの、ゲーム感覚であらゆる物を生春巻きに仕上げる、などなど、まず日本ではありえない飛び出た時間、ほんとに楽しかったです。
出来上がったものは、それこそ「その後どうするの?」と言われてしまった作品もあり。

私にとって、何かのために作るよりも、出来上がるまでの時間、何を試行錯誤して仕上がっていくか?の感覚をもち、最終満足して「できた!」こと、自分の固定概念を壊したらうまく行ったものばかりでした。

更に、共通語が英語のみだと、わからないなりにも、なにか聞かないと進めない状況、働きかけた分だけ収穫が得られ、充実に近づけるという事です。

日本では、みんなにまんべんなく、そして受け身でも目の前にお膳立てしたように、その内容が与えられます。

自分から
さがす
えらぶ
ねる

この工程の楽しさを、知ったら「次はいかに、楽しもうか?」と、つながります。

只今、秋祭りの準備中、小学校のよみきかせチームは、これに目覚めた人たちが動き出しています。

そろそろ準備に入った私の頭も、具体的に回り始めました。
そう、「なんでも、あり!」は、子どもたちの大得意分野で大歓迎。

私にできることを、チームで広げ、頭の中で組み合わせてみたら・・・、楽しいじゃないかー!


ワクワクしてきました。






2015年11月4日水曜日

姿見

目の前で起こっていることは、自分の姿見である。


病院とは、なんだか堅苦しいイメージもあるようですが、そこに来られる人が自分の今後どうしていきたいかを、考えるきっかけになる場所なんじゃないかと思います。
本音に問いかけ働きかける時間、そこに出くわす私たちには、何が出来るのか?

自分や家族が病気や怪我などトラブルにあうとき、いろいろ考える。

そして、聞いたら「やっぱり」と、確認できることで、それは今まで触れずに通ってきた道なのかもしれない。

いつか立ち向かわなくちゃいけない時、それが姿見に映しだされた時、

帰納的に考えて、「やはり、また来たな。」とピンときたら、無意識に引っ込んでしまう自分に、「ちょっと、まった。」を、かける。


嫌な気分や、かわそうとする動きを、引き止めるには、少し勇気がいる。
そんな少しの勇気を出してしまえば、自分は帆に風を受けるように、進んでいける。

そうやって物事が進んでいくことを知った人は、足踏みすることをしなくなる。






「生きとる間は、笑っちょかな〜」(訳:生きている間は、笑いがあり続けることが一番よ)

と、ある患者様から帰り際に頂いた言葉です。

「そうですよね!!あ〜はぁっ、はぁっ、はあ〜。」と、お互い何かを悟ったように出た感激の笑いでした。個室という事もあって!?いくらか、トーンも高め、テンションも高め。

将来、こんな明るい感じで歳を重ねていきたい

生きている間、笑っていられるために、私達は足りないものを、知り補い、立ち向かう。

船長は、君だ!!