2016年2月26日金曜日

見えなくなる自分

自分という存在は,
自分そのものが体を持っているにもかかわらず その姿、全体像はほとんど見えない 。
というのは、鏡を使えばそのかたちは確認できるが 鏡に映らない自分自身は、どうだろう。

人の存在は、とりあえず人の格好をしていればいいわけではなく、目に見えない内面も含めて自分という存在だ。
ところが、他人のことは相談にのったり、相手が どういう状況かを見てアドバイスをしてあげることができても 、自分自身のこととなるとよく分からなくなるものだ。

自分を丸ごと客観的に見ることができるもの、目には見えないけど「あなたの状態はこうですよ」、という鏡があるのなら、それを見て、歪んだ襟を正すように、おかしなところをチェックして、人にも見せられるよう、身だしなみならぬ心構えを整えたい。

自己成長、発展、自分磨きなどのキーワードに、目がとまるときがくる。
世の中には、ありとあらゆる情報が溢れている中、自分に合った方法を見つけ出すことが出来るだろうか?
飛びついて買った本を1回読んだか読まないかで、済んだという記憶
「あの話は、知っている」程度
ちょっとかじって、分かったつもり

そんなことを
繰り返して、モノに出来なかった経験はいくつもある、ノウハウコレクターで、「やってる感」に満足。

そんな失敗を、

できれば他人から指摘される前に 自分自身で気づけ、修正できたら 他人の目を煩わすことなく自分の事は自分で処理できるということだ。


不快なことがあるならば、過去の感じ方が真に自分の為に向かっていなかった。
また、不快の感じなくとも、結果的にその選択が、寂しい結果を呼ぶならそれも真ではない。

自分のどういう感じ方が、自分にとってわかりにくい、「真」ではなかったのか?
たとえば、自分がこれでオッケーと思っていた事も 実はちょっとさぼっている部分にok という蓋のようなものをかぶせていた。
そしてあるとき ちょっとサボっていた部分の指摘を受ける。
その時に 自分がサボっていた分を 認めることができれば 素直に改善の道が 開く。


 ところが この指摘に、反抗したくなる、「だって…」と、言い訳したくなる、更に、指摘に嫌味がまじっていたら その嫌味に焦点が当たってしまう等して、イライラすると真の原因から離れていく。
「おいおい、そこは、イライラしなくていいから、帰ってきて!自分。」と、心の中で、客観的に見られる自分を育てたい。

自分のために分なる部分を抜き取って、 そこに焦点をあてつづける。 クリアできるまで。しかし、 いつまでたっても。「だって…」から抜け出せないなら、こんな時、人は悩む。

別のたとえ、「上から目線」という言葉 。
気になる人にとっては とても耐えがたい言葉 なのだろう。
そもそも「目線」という言葉自体も、へんてこで気になる日本語だが、それはさておき
他人から自分は、見下されている、 と認識するなり たちまち 怒りが湧き上がってくる不快感。 見下されていることに反応するということは 、実は同じように 自分も他人を見下しているということになる。
不備・不足に優越感を持つ。
「わたしのほうが、まだマシだった」は、よくある話、何を見て、そう思うのか?
他人には平気でしていても、自分にされたら 、それは別?

そんな自分を認識する事で、ストレスからの解放が始まる。

大体は、認識したくない。「そんなことはない。」と、言いたくなる。
しかし、経験者は言う、認めて、立ち向かえばいい。そして、賢者は言う、法則性に基づいて人は行動すればよい、と。

一人でも多くの人がこの仕組みに気づいたら、受けなくて良いストレスに誰でも気づく事が出来る。出来るだけ早く、歳月を重ね続ける前に…



                     
      あらゆる出来事から、人は  気づく時があり、その必要がやってくる。



今、目の前で起こっている不快は、 「あるとき 私も他人に与えていることが無いだろうか?」と、考え正すきっかけは、「はたと気づいてしまった現実」に、その時が来た!のだ。


「やらかしていた」ら、「やらかしてたわ。」と認め、次は、どんな自分になっていたいか?
を、丹念に、繰り返す。

お約束は、

「決して、自分を責めない」

人生半ば、幸せになるために、チョット頑張る!





たけのことれんこん;Before


After..ピリ辛風味


0 件のコメント:

コメントを投稿